見ながら呟いていた

人はいつまでも、感情だけが残る。
喜怒哀楽の中でも、マイナス感情は延々と尾を引く。
何にあんなに怒っていたのか忘れても、その怒りの感情だけは生々しく蘇る。
認知症の人を叱ってはいけないのは、その辺りの事情がある。

さて。
喜怒哀楽の中で、出来るだけプラスの感情を引き出すものに接したいものだ。
それが無理なら、マイナス感情を引き出さないよう、誘発危険ゾーンには近寄らない、気をつける。
あとは、自分の楽しかった思い出を少しずつ引っ張り出して、にやにやする。

わたしが1番楽しかったのは、18歳〜22歳。
この黄金の期間。
当時、まだ人生を20年ぐらいしか生きていないのに一生で1番楽しいと感じた。
なんて薔薇色の日々なんだろうと、きゃっきゃと喜んでいた。
暗い高校生活の後に訪れた、予想もしない楽しく弾む、夢のような時間。
だが、この薔薇色にも23歳頃には翳りが差していた。
いつまでも続くとは思わなかった、この竜宮城気分。
なんの努力もしないのに、何の優れたこともないのに、若いというだけで周りはチヤホヤしてくれた。
だが、喜びに頬を紅く染めながらも、わたしは若さによるチヤホヤは永遠に続くことはない、と、脳の隅っこで覚醒した目でじっと見ながら呟いていた。
自分の売りは若さしかないことを、自分は若い真っ盛りにいたにもかかわらず、当時の自分は1番よく知っていた。
若さは、良い意味でも悪い意味でも、破壊力がある。

若さを失った今は、若さの蓄えはないが、若さが変化した、発酵したかも知れない「元・若さ」がある。
「元・若さ」は、若くはない年齢=老齢。
が、伊達に歳は取ってない。
積み重ねられた年月は、皺だけでなく、機微や知恵がヒダになって折り重なっている。
つるんとした若さは、それはそれでツルツルピカピカして素晴らしい。
つるんとしない、元・若さも、捨てたものではない。
両方、貴重な年月である。

若い女性に世の中が甘い(特に男性は)のは、仕方ないかなあと思う。
自分だって若い時は、若いだけで思いっきりもてはやされ、優遇されたんだから。
順番、順送。
若い時にチヤホヤされなかった人は、それはそれで、また晩年、良いことがきっとあるはず。
いつの時期も、どんな時期も、絶対に濃密で自分らしく輝くはず。

清めようと頑張ってお

わたしは自分の代ではマイナス要素はできる限り持ち越さないことをこころがける。
トラブルが怨みに発展しないように、気を付ける聽力檢查
人に与える怨みは、なかなか消えない。
自分が抱える怨みは、ブログにでも書いて発散させる。
もちろん誰か特定できないように。

知人で、過去の行いを浄化しようとして仏門に入った人がいる。
人生の後半のある時期、思い立ったそうだ。
かなり強引な手法で、のし上がり成功を納めた人だが、事あるごとに、世の中に寄付をしたりして、清めようと頑張っておられる。
アーリーリタイアをして坐禅に励むブロガーさんもいるが、坐禅の境地とはちょっと毛色が違う乳房超聲波

人生、終盤戦に入り、あの世へ行く前の準備として、自分の垢や埃、汚れを落として、綺麗に身を清めようとするのだろうか。
そういう意味では、老後、何もすることがない退屈な人には朗報だ。
かなり忙しい。
ちょっとやそっとでは清められない。
今、わたしのアタマに浮かぶのは、書道のお稽古を兼ねて、写経。
単なるアイデアラッシュだけで、実際に実践するかどうかは別として。
仮に病気で体調が優れなくても、写経をしている時間だけは、身体の不調を忘れるかも。
逆に体調不良なら何もする意欲がなくなる可能性も大だ。
(どっちやねん)

話は脱線に脱線を重ねるが、
とりあえず、老後は、自分の汚れを落とすため、仏門研究を一つの課題にしよう。
て、誰も興味ないと思うけれど脂肪 細胞

打開案が浮かび上がるこ

寒空ウォーキングを回避できた喜びに浸っていたのも束の間、次のウォーキングに誘われた。
最低でも月1回は行きたいとのこと。
行きたくない、と、わたしは正直に胸のうちを相手に言っExpress Entry 加拿大た。
行かないからといって、その手に入れた黄金時間を有効活用せず、家では1ミリも動かないことも伝えた。
本音をぶつけた。
「皆んな、そんなもんやで」とその人は言った。
あくまでも一緒に行きたい意思は変わらないようだ。
わたしの行きたくない意志を覆すと、一緒に行くことになる。
困った。
断る良い理由が見つからない。
このままでは、相撲のように張り手&張り手で土俵の外に追いやられる。
負けるとわたしが疲れる。
ここは、ぜひとも自分の意志を通さねば英國物業

とかなんとか、結論は持ち越された。
あああ。
だが、来月の話だから、まだ時間はある。

ウォーキングに行かないで自宅で1ミリも動かないわたし、、、自分に申し開きは出来るか?
自分を納得させるような理由が自分にあるか?
難しい。
あまりにも自分を説得出来ない事態に直面すると、意図せず結果的に何らかの打開案が浮かび上がることもある。
別の何かをする、今まで気付かなかった楽しみを発見したり。
案外、そういう良くない流れ、経緯で、予期しない良い展開が生まれることがある加拿大 stream b移民

が、とりあえず先週の土曜日は、ウォーキングを回避、欠席して、家の中で1ミリも動かなかった。
これは、悪い見本、事例。
2回目、3回目となると、家で1ミリも動かないことに嫌気がさして、きっと何かをし始めるだろう、、、と、淡い期待を自分に寄せている。

皆さんは馬に釘付け

動力エネルギーに、「馬力」というものがある。
鉄腕アトムは、十万馬力!
この力強い馬力で、湯布院の街中をぐるりと回った。
近くで見ると、馬は立派だ。
GWに石垣島の近くの竹富島で牛車に乗ったが、牛とはまた違う。
将軍さまか騎士になって、パッカパッカと馬を乗りこなすのはカッコいい。
わたしの父は午(うま)年ということもあり、馬が大好き。
学生時代は乗馬部。
義姉も乗馬をしていた醫美
わたしは、とても乗れないので、馬に引かれてポコポコと西部劇の幌馬車の乗客気分。
行く場所、行く場所、観光客の皆さんが、にこにこ笑顔で手を振ってくれる。(馬に)
注目を集め、凱旋パレード中の大谷投手になった気分だが、皆さんは馬に釘付け。

ちなみに、何頭もの馬が駆け巡る躍動感溢れる大きな絵画を実家からもらってきた。
夫の実家をリフォームした際、リビングルームに掛けているが、しみじみ、、、父の活力をもらっている下顎線

それにしても、湯布院は素敵なところ。
外国人だらけなのが少し気になるが。
世界ではあちこち心配事象がたくさん起こっている、、、
ではあるものの、インバウンド再開でまた、日本も世界も活気が出るといいなあと願う激光脫面毛

がない場合も多

途中までしか登らず下山するのも勇気が要るそうだ。
有名な登山家がそう言っていた。
一番大事なのは、自分の命を守ること。
そのためには、勇気を振り絞って下山する。
危険な山を登るのは勇敢で脚光を浴びる激光 脫毛
逆に途中で降りるのは、不名誉で臆病者のレッテルを貼られる。
それでも理性を振り絞って下山する。
一旦、スタートすると勢いが付いて、なかなか進路変更しにくいものだ。
まして下山など、プライドが許さない。

自分の命を犠牲にしても挑戦したい魅力があるだろう。
自分との闘いになる。

それは冒険家の挑戦。
一般人でも、危険な魅力は身近にたくさんある。
日大生の麻薬然り。
手を出すと危険だが自己責任でスリルを味わうbikini 脫毛
手軽で日常生活的で、そんな大それたことだという、あまり自覚がない場合も多い。
法律に触れなくても色んな誘惑はある。

下山の話が、またまた脱線している。
自分の意思で、自分の状況を見て下山する。
が、姥捨山に連れて行かれようとすると、全力で抵抗する。
そんなに悟りを開いている人はいない。
まして、自分の命と引き換えに。
命の灯火を自分で消したくなる、こころの病気もある。
ふと死神に呼ばれる。
いつも家族は目が離せない。
そういう家族を抱えると、家で1人にさせられず外出もろくに出来ないという嘆きを何人か直に聞いたことがある。
大変だ。

と、またまた下山から話が逸れた。
人生の下り坂を降りる下山。
生物は生まれて死ぬのは、当たり前。
生命は生まれ、いずれ消滅する。
にもかかわらず、生きていて元気なのに、下山。
だが、摂理である加拿大自僱移民計劃

化すれば素晴らしい

本来、運動は、継続的に、毎日のように行うのが、効果的らしい。
私は、大の運動嫌い。
そして、面倒くさがりなので、ちまちま毎日、運動するのは苦痛だ。
家の中で出来る運動というのもあるし、日常化すれば素晴らしいのだが、
自主性という概念を母親の胎内に置き忘れて生まれてきた(と勝手に思っている)私には、
そんな人の目のないところでの自発的努力など、できるわけがない。

ウォーキングもいいのだが、ここのところ、家を出る時間がズルズル遅くなってしまい、
歩いて駅まで行く時間がなくなってしまった。
これはよくない、以前のように歩くべきだ、と、頭の中では思っている證婚套餐
何も用事がないのに、歩くことだけを目的に歩く、というのは、
私は合理主義者で、かつ、怠け者なのでNG。
何か用事があって、そのために歩いて行く、というのが私としてはベストだ。
ジムに行くために、車を利用などというのは、特にNG。

そのジム、だが???大嫌いだ。
週に1回だけ、軽快なリズムに乗ってアップテンポの有酸素運動のプログラムを受けている。
その後、引き続きジム、そして、プールで泳ぐ。
本当は、週に3回ぐらい行くのが良いのだが、その気はまるでない。

その週一の、ジムが大嫌い。スイミングは、ちょっと嫌い。
足指骨折の時は、運動が一切出来す、ある意味、ラクラクで、楽しい3か月間を満喫できた。
今は、元通り、で、毎週、その日が憂鬱だ利是封訂製
ご近所の、かつてのママ友Mさんと、ある日、そのフィットネス?クラブでばったり会った。
彼女は、私と同じ有酸素運動のクラスにいた。
私は「ジムにも行ってる」と言うと、彼女はあからさまに顔を歪めて、
「私、ジムって、大っキライ!!」 だから、利用してないと、はき捨てるように言った。
私だって大っキライなんだけど。


それ以来、私は、ジムで憂鬱な気分に落ち込む度に、彼女の歪んだ顔を思い出す。
大っキライなジムを私は、なぜ、こうまで無理してやっている、続けているのだろう。
好きでやっているわけでないことだけは、事実だ。
今に見返してやる!!!などという気持ちがないといえば、ウソになるかも知れない。
見返すというのは、言葉のアヤだが。
嫌いだからやらない、努力を怠る???
そういう、欲望のままのことを続けていると、遠い将来、差が出るだろう。
今は、どういうことはないが、長年続けると、継続は力なり、で、
20年後に、爽やかな顔で、Mさんとご挨拶できるといいなあ、と活動佈置公司

うにウォーキングしたけれ

わたしの趣味はインドアがほとんど。
いずれ動けなくなったら、外出出来なくなったら、その時に家の中で楽しもう、と、あえて取っておいている趣味がある。
それは、映画館での映画鑑賞。
今では新作でも半年もしない間にネット配信される。
自宅でパジャマのまま寝ながらでも鑑賞できる吉屋清潔
が、映画館にわざわざ足を運ぶのは、出不精のわたしに、自分でハッパをかけている。
わたしは出かけるのが億劫。
だが、出かけると都会ではいろんな人がいて刺激になる。
(最新の大都会は尚更、技術の発展に目を見張り、街が動く)
とは言うものの、わたしの楽しみはもう日頃の近辺の都会にはないなあと、しみじみ思ったりする。
都会に求めるものがない。
出会いやキラキラ、そんな人工的なものより、落ち着きや、安らぎ、親しみ、自然のほうが良い。
都会にいる年配の方々を見ても、なんだか場にしっくり合っていないように感じる。
(シニアでも働いている人は別として)
自分の居場所に、都会は適していないと感じる。
若い頃は憧れたが、また原点に戻る傾向か醫管局轉介放射診斷

ではあるが、出不精で引きこもっているのも心身に良くない。
かといって、自主的にウォーキングするには熱意が足りない。
コロナ時は、全くどこにも出られず、何も出来なかったので、内から押し出されるようにウォーキングしたけれど。

というわけで、自宅映画は、弱った時のためにお取り置きしている。
読書は、最低限しかしない。(ほぼしない)
ここのところ急に理解力がかなり衰えているのを実感する。
好奇心も弱くなっている。
自然減か。

そのほかに、あと、弱った時用のお取り置き楽しみとして、縫い物がある。
チクチク手縫い。
ごく近所に洋裁教室があり、いずれ顔を出してみようと思っている。
先生はわたしより年上のよう。
はやく行かないと、先生が引退してしまう。
社交ダンスも40代の時、歳を取った時の趣味としていずれ始めようと思っていたが、なかなか重い腰が上がらず、結局、動き出したのは、49歳の時。40代ギリギリである。
そういう前例もあり、いずれ次の段階のために、し始めようと準備したいのは山々だが、気持ちだけ充満して、なかなか動かないのがわた轉奶粉肚痾し。