させることになりかねな

たまたま無いなら良い。
いつも常に無いとしても、本人がそれでよければ良し。
ごく稀にあるなら、それは素晴らしい。
あるか無いかわからないことの為に、一応、取り敢えずすぐ行動出来るように備える。
防災訓練みたいなものか。

しかし、健康オタクのように、健康なのに、その現況の健康を享受せず、不健康にならない為のことばかりにとらわれる日本簽證
健康を害することばかりが、強迫観念のように脳内に押し寄せて来る。
実に、もったいない。
健康を維持するのには努力も必要だろうけれど、今ある健康、幸せを噛み締めないと、いつ噛み締める?
もっともっとと上昇志向も結構だが、ある程度の人生を歩むと、もっともっとは、せっかくの幸せを目減りさせることになりかねない。
とはいうものの、健康であってこそしか出来ないこともある。

趣味の先輩Aさんは、自分が歩んできた道を遡ってのアドバイス
仕事一筋でリタイア後、家にも、地域にも居場所がなかった男性が歩んできた道のり。
仕事もしたけれど、主婦もしながら、地域活動(自治会やPTAや地域の子供会)もして、ついでに仕事と子育てをしていた、女性としては、ごく一般的な普通の人であるわたしとは、順番も道も違う。
逆に、彼は仕事一筋で他を全て妻に任せていたということだ。
どういうこと?
誰のおかげでメシが食える?と、口には出さないにしても、普通に力むことなく淡々と思っていることだろう英國租屋
だがしかし、時代が変わると意識も変わる、、、のは、皆さんご存知のところ。
仕事さえしていれば、お金さえ稼いでくれば無罪放免、免罪符の時代は過ぎた。
働く本人の働き方も、ライフバランスがシフトし、仕事ばかりを優先して私生活が犠牲になる企業は敬遠される。

女性は、人生をいくつもの線を同時に走ってきている。
複数タスクを抱えてこなしていた。
しかも、収入を抑えろだの、時間を制限しろだの、家事育児に影響ない範囲なら仕事をしてもよい(許可制)だの、制約付き。
男性は仕事の中ではいくつもの案件を複数抱えていたかもしれないが仕事一筋。
子育ても家事も介護も家の行事も全部全力で抱えている人はどれぐらい、いた?
(中にはいたが、少数派)

この趣味の先輩Aさんは、わたしより少し年上と思われ、環境も普通なので意識も革新的でもなんでもなく、昔風なんだろう。
ずっぽり昭和の人。
だから、わたしが彼の「居場所作り」アドバイスに違和感を覚えたのだろう、と、今初めて理解した。
居場所作りにおいて、わたしは彼の何十年も先輩になる。
何を今更感がある。
とは言え、仕事をしない選択肢もわたしにはあった。
ということは、わたしは昔の価値観、ライフスタイルを採択したため、何十年も前に趣味を一通りかじることが出来たのだろう。
(しかしながら、仕事をしていても、趣味や仕事を離れた世界の中から選択して楽しんでいる人はいた)
余裕が無い人もいた。
仕事と趣味。難しい選択。
仕事が趣味、なんていう人もいるDermes 脫毛

リタイアした男性の皆さん、多かれ少なかれ、その後の自分の人生と向き合うことになる。
女性もリタイア後は人生に向かうのだろうけれど、「女性は家庭」という古い時代も半分生きていたので、男性ほど、リタイヤと共に、無職の素の自分に向き合わなくてはならない切羽詰まった思いは強くないように思う。
温度差は人それぞれかも知れないが。

監督を特集、放映してい

この水仙も舅が植えていたもの。
それにしても、毎年、律儀に咲くものである。

さて、自分の幸せを犠牲にして他人を幸せにすることが自分の幸せの人が仮にいるとする。
宗教家か?
決して自分を犠牲にはしていないと推測する。
自分の特性を生かしている活動假牙
自分の幸せと人の幸せが一致するのが理想。
自分が不幸なら、他人よりも自分を幸せにするのが先。

それで思い出したが、
NHKテレビ番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」で、鰹節職人が、プロとは?という問いに、
「自分が満足出来るものを他の人に満足してもらえるのが、プロかな」と答えていた。

ちなみに、昨夜、この番組の特別編で、シン?エヴァ劇場版の 庵野秀明監督を特集、放映していた。
この人、肉も魚も食べずにお菓子ばかりボリボリ食べているけれど、60歳でもスタイルも悪くなく健全。
にこやかな可愛い顔をされていたが、取材にはこの番組最長の4年の長きにも及んだ。

モノづくりをする人は気難しい。
昔話「鶴の恩返し」の鶴のように、自分の羽をむしって作品を作る。
命を削って作品を生む。
命がなくなっても、満足いく作品が出来れば本望。命と引き換えに植牙 假牙
庵野監督の手法、、、ため息が出る。
自分を追い込んで追い込んで(まるで)血が出てのたうちまわる、そのプロセスは壮絶。
〆切の日が、最後の吐き出し終了口。
多大なプレッシャーの負荷がかかり、追い詰められて絞り出るものは内臓まで出てきそうな瀬戸際、崖っぷちに立たされる。

スケールや影響力は全く違うけれど、かつての仕事を彷彿させた。

監督が気に入らない部分は自分で作り直すにしても、そのたたき台を何度も何度も作らされるスタッフのストレスは想像に難くない。
しかも、具体的な指示なしで、「そうじゃない」とダメ出し照MRI
どこがどうダメで、どういうのが良いのか、方向性すら定まっていないで。
じゃあ自分で作れ!とブチギレるだろうが、スタッフのエネルギーが続く限り作らせる。

この説明、いかにも浅く薄っぺらで軽い。
つくづく、自分の文章表現力は安っぽいと実感する。
語彙が乏しい、、、。ボキャ貧である。
(読み返してみて自分の熱量が全く伝わっていないと感じる)

しは開けたら閉めろだ

わたしの夫は実に可哀想である。
仕事を頑張り、さあオフタイム!!と、くつろぎ時間なのに窮屈な思いをさせられる增肌減脂

やれ、使わない部屋の電気は使わないなら消せだの、モノを使ったら元に戻せだの、TVを大音量にするな、引き出しは開けたら閉めろだの、言われる。

だが、服は脱ぎっぱなし、荷物は放置しっぱなし、ゴミは分別はしないで出しっ放しほったらかし、、、は、何も言われず放任、自由。

書いていて、なんだか3番目孫(5歳)が母親に怒られているところを連想した。
1番目、2番目はもう小学生なので、そんな注意は卒業している。
が、未だに時々食事マナーを厳しく躾けられている。

そう考えると、夫の私生活は未就学児レベルということになる。
教育を怠った、わたしに責任があるのか。
私生活は未就学児レベルだが、人に危害を加えたり犯罪には手を染めない。
人としての道徳心、常識はある場地佈置
それに、ギャンブルをしないから良い。
わたしはギャンブル?アレルギーだ。

と、かばっているのか、けなしているのか、わからない説明になった。

それはそれとして。
TV大好き夫ではあるが、ある意味、TV中毒である。
ではあるものの、(個人的には)ギャンブルよりマシ。(何度も言うようだが)
わたしの身近にこういう人はいないが、
家に不在なのは良いが、いつもギャンブル場に通い詰め、タバコの煙が染み付いた、独特のニオイを発する灰色の服を着た人、、、
ああいった空気感は著しく苦手で敬遠する。
まさにわたしとは水と油の感覚である。

そう思うとTV中毒など、かわいいものである。
電気代しか要らないし。
それに、垂れ流しTVは思考力を奪うので、禅のようなもの。
無になれる。脳を休ませるにはもってこい。
労働の再生産に向けて、心身をリフレッシュしている。
それはアタマではわたしは理解している。
他人のリフレッシュ行動に制限を加えるのはどうかと思う、、、

、、、のではあるが、、、。
わたしは、同じ空間にいる。
しかもずっと共有の家結婚場地
わたしのリフレッシュ方法と相反し真逆で、わたしのストレスとなる。
理解ばかりしていたら、わたしが潰れる。
夫の明日の再生産のために、わたしの再生産が出来ない。

ま、そこは、お互い、譲り合って、明るい未来へ、だ、
(急に文章を段落ごと端折った感あり。
もう書くのがめんどくさくなっている。
不毛感あり)

る目に移行していくこ

5歳孫とわたしは、ほぼ同じ能力だと感じる場面に度々出会す。
苦笑。
発展途上、未発達の5歳と、スローダウン衰退途上のわたし去暗瘡疤
これから先が上下に分かれて違うが、今はクロスしている交差点。
まだわたしには余裕はあるが、孫たちに対してそのうち暖かい目から、頼りにする目に移行していくことだろう。
5歳児も、わたしがだんだん衰えてくることがわかると、自然から学ぶ人間観察が出来て、ものごとの仕組みや成り立ちがわかって悪くない。
発芽し、若葉になり、青々茂り、やがて枯れていく。
そういうものである。自然の流れ、摂理。
人間の誕生、成長、衰え、終焉は、身近で見る生きた教え、見本。

ちなみに、この季節、年賀状自体の喪中ハガキが次々来る。
まあ皆さん、ハガキのお父さん、お母さん、ご長寿で、天寿を全うされている。
80代は若い、90代中頃が多く、100歳を超えて亡くなる方も少なくない。
と、毎年そう思っているが、年々強く思うようになった。
少子高齢化社会なんだと実感する。
我々高齢者は、まだ更に高齢の親の世話をしなければならないMediLASE價錢
親子で一世代違うならまだしも、同世代の超高齢配偶者を介護する老老介護はもっと大変だ。

話は変わるが。
人間の苦には、病、貧困、戦争、災害の他に、老というのもある。
が、長生きすると皆、老いるわけで、それは避けられない「苦」の中に入るのか???

先週金曜日、NHK TV番組「アナザーストーリー」で豊田商事を取り扱っていた。
わたしの世代でもある会長(故人)。
暗い沼に入り込んだ気分になった。
宗教もそうだ。
弱い人のこころの隙に付け入る。

小2男児が、こっぴどく大人に叱られたとしても、環境的に普通の明るい温かい家庭に育っているなら、別に日常の一コマの断片だが、
親が離婚して親戚の家に預けられていたとしたら、しかも経済的に援助もなく、親戚も苦しい状態だとしたら、空気感も違ってくるだろう。
昔と今では価値観も変わり、時代の色も加味される。
だが、愛情や余裕があるのと、ないのとでは、雲泥の差である。
逃げ場があるか、ないか。
追い詰められるのは良くない。

本人の資質にもよるだろうが、犯罪に手を染める人はある程度の共通点がある。
同情の余地がある不幸な環境、背景。
犯罪者と、普通の家庭を同じ土俵で論じるのはお門違いではあるが、一歩、間違えると両者は背中合わせに接している。
いつ、ひょんなことで、幸せが不幸にどんでん返しになるか、可能性はゼロではない。
運、不運もあるだろう。
しかしながら、、、番組「アナザーストーリー」を見ていると気分が暗く落ち込む。

ごくごくどこにでもある普通の幸せが、壊れていくのは恐怖だ。
宗教にすがりつきたくなるのも、わからないでもない。
が、、、。

筆が、どんどん暗い方向に進んでいる。
別の違う方向に転換したい。
筆は気ままで好き勝手に進み、わたしを困らせる激光脫面毛

知的な明治生まれの

今日の気分は、、、
なんとなく、おばあさん(姑の姑)のことを書きたくなった。
何度か、蝶ブログには書いているが、なぜかぶり返すhifu 機

姑の姑(夫の父方祖母)Aは、小柄だが、キリッとした知的な明治生まれの女性。
婦人会で活躍もしていたようで、行動力があったと聞く。
わたしが初めてちゃんとAと話したのは、結婚してすぐ。
「ここは、あなたの家だと思って寛いでくださいね」と言われた。
ご挨拶のようなお手紙もいただき、今も保管してある。
(一回ぐらいしか読み直したことがないけれど)
ある日、真珠のネックレスをいただいた。
白いVネックのニットトップスの服をいただいたこともある。

かくしゃくとした、存在感のある人だった。
若い頃は、ぼんぼんじいちゃん(旦那さん)に振り回されたが、晩年は夫婦で旅行に出かけることもあったDermes 價錢
おじいさんを送った後は、寡婦で8年ぐらい過ごし、わたしの末っ子が生まれた半年後に病気で84歳で他界した。
菜園で胡瓜などを毎日もぎ取り、姑にもお裾分けしていた。
姑は毎日、 Aおばあさんの晩年には食事を作り持って行っていた。
偉いなあ、、、と感心する。

Aおばあさんは、昭和4年築の家におじいさんと住んでいた。
2度のリフォームを経て、今も現役の美しい(とわたしは思っている)家であるが、1度目の大規模リフォームの後に、わたしたち母子は1年間、その家に住んでいた。

Aおばあさんは、真面目な成績優秀な優等生だった。
だが、結婚相手(おじいさん)が、お洒落なボンボンだったため、何かと苦労した。
おじいさんの写真を見ると、カッコいい男性だった。
ああいう男性は、夫にすると苦労しそうだ。
実際、苦労したわけだが、、、。

姑の仏事で、ご近所に住む人とお話しする機会があった。
「おじいさんが、(ぼんぼんちゃん、故)Aおばあさんなら絶対に売ってくれない家を売ってくれた。ありがたいことだった」と、今も感謝の言葉を述べられる。
おじいさんは、夢のような話に乗って、次々に土地や家を手放していった。
夢見る、ぼんぼんちゃんだった。
そのせいで、かどうか知らないが、おじいさんの息子(舅)は、まあ堅物、石頭堅吉、「1足す1は、何が何でも2!」の人だった。
姑はよくぼやいていた。
無駄なお金、合理的ではないお金、納得できないお金はビタ一文と払わない主義(誇張表現あり)の舅と、考え方が合わずに困っていた中国国债
わたしの目から見ると、姑こそ、何であんな無駄遣いをしたがるのか、理解に苦しんだ。
わたしは、舅派。
そのせいか、舅と同じ感性であるが故に、微妙に違う些細な点が気になって、あまりウマは合わなかった。

そんなことはない

ぜひ書きたいことがある。
昨日アップした、体育会系の楽しい運動余生について。
益々、ヒートアップした、この体育会系の人物は、鬼軍曹と化した。

何十回と同じことをやらされ、
「違う!」「違う!」とダメ出しは延々と続く。
どこがどう違うのか。
わたしは示された見本と同じようにしている(つもり)照CT
1ヶ月ぐらい延々と同じことをしている。
1回目も100回目も変化、進歩なし。
耐久性能検査をしている機械のように、101回目に、わたしは壊れた。
「100回やっても500回やっても同じです!!」
被っていた帽子を床に叩きつけた瞬間である。
(帽子、被ってなかったけど)
その前の時間も、ずーっと怒鳴られっ放し。
何故、出来ない?
何故、そうする?
何故、こうしない?
何度、言ったらわかる?

わたしは、何故自分が怒られているのかわからない。
自分の何処が悪いのかわからない。
何しろ出来なくて、一方的にわたしが悪いようだ。
叱られ否定され続ける。
逆転することはあり得なく、こんなことが一生続く。
一方的にやられるだけの、こんな徒弟制度、令和の時代には合っていない。
教えてもらうなんてとんでもない、師匠の技を盗み見て身につけよ、とは昔の職人さん。
わたしは、甘々、甘?い甘?いキャラ。
いきなり崖から子供のライオンを突き落とす親ライオンのやり方には着いていけない。
せめてパラシュートが必要。
スパルタは拒絶反応。わたしは今時の若者風、今時の年寄り。
生きて行くには他に方法がないなら泣いてでもしがみつくだろうが、そんなことはない。ぱ?っと手を放した。
楽しむためのことなのに、苦しんでいるのは本末転倒磁力共振中心
(「楽あれば苦あり」「苦は楽の種」、、、と、ことわざカルタが頭に浮かぶが、、、)
やめたっ!!やってられるか!
カルタを手のひらで、ぐちゃぐちゃに混ぜ返す。

親切に教えてくれる人は他にもわんさかいる。
お金を払えばプロが更に高度なノウハウを効率よく駆使してくれる。
多くの生徒を輩出してきたレッスンテクニックが研究し尽くされている。
歯を食いしばってでも、、、は、やめた。
そんなに噛んだら唇が痛い。

その後の反省会で、わかったこと、、、。
皆さん、ガンガン意見なり考えなりを主張していて、お互い負けてないバトルのしのぎ合いが継続されることによって、お互いが鋼のように心身の強度を増して行く。
心技体。体育会系のセオリー。
この話を聞いて、わたしは、無理!と瞬時に思った。
わたしはそういうキャラクターではない。
熱い夏の甲子園球児たちのような、燃える体育会系人間ではない。
学生時代から帰宅部で、本格的な体育会系クラブに身を置いたことはない。
やはり、住処、棲家は、人それぞれ適材適所、あると思う游水耳塞

帰りの電車の中で、ポロポロ涙が流れた。
マスクの下は鼻水も。
マスクって便利だと心の底から思った。(感激するのは、そこ?)

家に帰って、また涙がはらはら流れた。
鼻水は今度は流しっ放しではなく、ちゃんと拭き取った。
こうやって少しずつ積み重ね、強くなり、、、だといいが、、、そんなのは世の中に横行する美談だ。
弱音を吐くのは、悪いことではない。
頑張らない自由だってある。

ームセキュリティを掛け

若い学生さんに囲まれた電車内。
皆さん、わたしの子供より、孫に近い年齢。
わあ、わたし、みんなのおばあちゃん世代毛孔角質化。 

乗った電車が通勤、通学時間なもので、そういうことになる。
家を出て駅に向かうバスに乗った時から場違い感ありあり。
日頃の活動時間、活動場所、棲息場所が違う。

満員電車内ではリュックを背中から前に掛け替えて、場違い感は更に際立つ。
いいの、いいの、行き先も目的も違うから比堅尼脫毛

出かける前にリュックを持ってみると、やたら重くなったため、荷物を減らした。
だが、肝心の、昨日から凍らしておいた水入りペットボトルを入れるのを忘れ、玄関を出たところで思い出し、ホームセキュリティを掛け直した。

大丈夫かなあ?
もしもの時の、緊急おばあさんグッズ(下着だの衛生用品だのなんだのかんだの)を優先順序から漏れてリュックから取り出して置いてきたので、若干気になる。
体調管理は重要。
健康に心配がない今しか行けないと実感する。
遠方の、長〜い、ウォーキングの会。
たぶん、わたしが一番の若手だと想像する。

おっと、降りる駅を間違えないようにしないと。
ブログ更新は、ほどほどに。

では、行ってきま〜す紮肚